小手返しを、相手の手首関節を極めてかける癖がつくと、短刀を持って相手の手首が強くなった場合にかからなくなります。合気道のすべての技は、関節技がメインではなく、体捌き、足捌きによる導きと崩しこそが肝です。
片手取り四方投げ
片手取り四方投げにしろ何にしろ、合気道における最大の「武器」は、己自身の体重、つまりこの世界の根源とも言える重力です。すべての生物は重力に抵抗して生きていますが、合気道はこの天地の理を逆に利用します。だからこそ、足捌き、体捌きが肝です。
両手取り天地投げ
両手取り天地投げは、呼吸法でつながった相手の重心を、脱力することで崩していくので、ぐっと力を入れて投げるのではなく、すっと力を抜くのが肝です。
片手取り隅落とし
片手取り隅落としは、相手が自分の手首を放したくても放せない状態にして崩すのが肝です。手刀のようにすると切れてしまうので、脱力して手を内側に入れ込んで相手の手と密着させます。
合気道の関節技は相手を痛めつけるためにかけるのか?
「あなたたちはまだそんなことをしているんですか?」
浦和合気会で稽古させたいただいた際、指導に訪れた遠藤征四郎師範が稽古中に投げかけられた言葉を鮮明に記憶している。
高段者の先輩が後輩に四教をかけ、痛みで思わず後輩が悲鳴を上げた瞬間を捉えてのことだ。
確かに四教は、熟達者にかけられると、一瞬脳天を直撃するような激しい痛みを感じる。
多くの場合、苦痛で顔を歪める受けの姿を見て、取りは自分の技が上手くかかったと満足する。
しかし、そんな高段者に対して遠藤師範は、「相手を痛めつけて自己満足するレベルに、いつまで留まっているんですか?」と疑問を投げかけられたわけだ。
「外国に行けば、関節がものすごく柔らかくて、痛みをほとんど感じない人はいっぱいいますよ。そういう人には、痛いからかかる技ではかかりません」
「そもそも、相手は受けをとってくれているわけです。その相手を痛めつけて何の意味があるんでしょうか?」
それ以来私は、関節技の際にも、できるだけ相手に痛みを感じさせないで、体捌き、足捌きで相手を崩すためにはどうすればいいのかを探求し続けてきた。
同時に、それが果たして武道的にどういう意味を持つのかも考え続けてきた。
武道である以上、どんな相手であろうとも、その攻撃を制する、捌くことは必須だ。
ただし、当然ながら合気道においては、相手を痛めつけることが目的ではない。
もし、痛いから技がかかるとしたら、それは最初から相手を痛めつける、痛みによって相手を制するということになる。
そうでない道はあるのか?
一般に関節技で相手を崩す、投げることが可能なのは、相手が痛みを感じるからだと思われているかもしれないが、順番は逆ではないのか?
しっかりと体捌き、足捌きで相手を崩した上で関節をとりにいけば、相手は痛みを回避するために自ずから回避行動に入り、結果として相手を制することができるかもしれない。
相手をそういう心身の状況に導くことこそ、目指すべきものではないのか?
ここで大切なのは、「自ずから」という点である。
痛みが先行する、つまり相手への攻撃性が先行すれば、当然相手はそれに反発し、敵愾心を持ってしまう。
そうではなく、こちらから相手を導くことによって、相手に自然に回避行動を選択させる。
こうなれば、相手を痛めつけることなく、相手を制することが可能となる。
そしてこれは、単に技のレベルの話ではない。どのような心の状態で相手に技をかけるのかこそが、実は核心であるとも言えるのだ。
中学時代に夢中で何回も読み返した吉川英治の『宮本武蔵』のなかに、こんな記述がある。
武蔵が槍の宝蔵院に向かう途中、畑仕事をしている一人の老僧の横を通り抜けようとすると、何とも言えないすさまじい気が感じられて、思わず九尺ばかり跳んで通り抜けた。
この老僧は、奥蔵院の住職・日観だったが、こう武蔵と会話している。
「お手前はわしの側を九尺も跳んで通った。何故、あんなことをする」
「あなたの鍬が、私の両足に向かって、いつ横ざまに薙ぎつけて来るか、分らないように思えたのです。又、下を向いて土を掘っていながら、あなたの眼気は私の全身を観、私の隙を恐ろしい殺気で探しておられたからです」
「はははは、あべこべじゃよ」老僧は笑って言った。
「お手前が十間も先から歩いて来ると、もうお手前がいう殺気が、わしの鍬の先にピリッと感じていた。それ程、お身の一歩一歩には争気がある。当然、わしもそれに対して、心に武装を持つのじゃ」
「あの殺気は影法師じゃよ。つまり、自分の影法師に驚いて、自分で跳び退いたことになる」
関節技で相手を痛めつけようとすれば、その攻撃性は必ず相手に伝わり、相手は頑なになり、ますます技はかからなくなり、それを力づくで乗り切ろうとすれば、さらに合気道の本質から外れていく。
この悪循環に陥ってはならない。
2020年11月奉納演武・体術(正面打ち、片手取り、短刀、横面打ち、諸手取り、両手取り)
2020年11月の多久比禮志神社・奉納演武では、最後に約6分間、体術の演武を行いました。正面打ち、片手取り、短刀、横面打ち、諸手取り、両手取りの基本技を奉納しました。
体の変更・片手取り呼吸法
里山合気会では、まったくの初心者でも、基本からゆっくり時間をかけて稽古しますので、まずは気軽に体験してみてください!
交差取り一教
交差取りの演武などでは、往々にして取りの手を追いかけて自分で間合に入ってくれる受けが多いですが、あくまでも取りが体捌き、足捌きで主導的に間合いを作ることが肝です。
『鬼滅の刃』に埋め込まれた合気道の教え
映画版「『鬼滅の刃』無限列車編」を息子と観た。
テレビ版は息子が観ているのを横目に、部分的に知っていたが、映画版のクオリティは大人でも十分に楽しめるものだった。
有名な「全集中の呼吸」など、随所に武道、特に合気道と通じるものがあることは知っていたが、この映画を観て、さらに哲学的な部分でも通じるものがあると気づいた。
①炭治郎は、血鬼術から何度も回復するが、それは夢のなかで自らを殺すことによる。生への執着を捨て去ることで逆に真の生を得る。この姿を見た鬼は、「なんという胆力か」と驚愕する。武道における胆力も、まさにこうしたものだろう。
②上弦の参の鬼は、まさに「悪しき武闘家」の典型である。強くなることだけを目指し、そのためには悪魔に魂をも売るように誘う。強くなるために鍛錬することを無上の喜びとしているが、勝ち続けることがすべて、己がどこから来て、どこに行くのかが分からない。
③炭治郎の深層心理は、まさに禅の世界である。透明で温かい。おそらく、この物語にとって、これは大いなる伏線なのだろう・・・
と、色々と興味深かった。
小学4年生の息子は、多分、派手なアクションを喜んでいただけだと思うけど(^-^)
ちなみに、合気道における呼吸法は、深く静かなものだ。
余計な力を使わず、相手と己の世界を一体化させていくことを目指す。
まさに戦いながら、炭治郎の深層心理のような世界を保ち続けること。
合気道の達人と言われた塩田剛三氏は、合気道の極意を問われ、「自分を殺しに来た相手と友達になること」と回答したと言うが、『鬼滅の刃』には、随所にこうした哲学が埋め込まれていて面白い。
正面打ち一教
正面打ち一教は、相手の中心と自分の中心を一体化させて崩します。それが一瞬でできるようになるのが理想ですが、こればかりは、何千回、何万回も稽古しないと身につきません。

