里山合気会は、閉校となった小学校木造校舎の一教室に畳を敷き、ほんの数名で稽古を始めた。2014年の暮れのことである。
私が校舎を管理するNPO団体の事務局をしていたこと、そして何より、自宅近くで気軽に稽古できる場所を確保したかったことによる。
最初の3年ぐらいは、NPO活動で知り合った3~4名の方と一緒に、月2~3回ペースでぼちぼちとマイペースで稽古していた。
私自身は、富山合気会の稽古にも通いながら、そこでの稽古内容を再度、里山合気会で検証するような感じで楽しんでいたが、徐々に会員が増えるにつれ、会員の方から「先生」と呼んでいただけるようにもなった。
ただ、正直「先生」と呼ばれるのには、今でも違和感が残っている。
私としては、道場の畳の上で好きな合気道を学び合う道友、そのなかの若干の先輩という感覚でしかない。
何より私が嫌なのは、「先生」と呼ばれるような関係性が、間違えば互いの稽古にとって障害となることである。
私としては、同輩や後輩とは常に、「本当にちゃんと技がかかるのか? その技は合理的なのか?」と互いに検証し合える関係性こそが何よりも大切だと思っている。
「先生だから技がかかる」のではなく、「一番適切に技をかけられるから先生」であり続けなければ、人様に指導するなどと偉そうなことは言えない。
まあ、そもそも私には触れただけで相手が吹っ飛ぶような実力などないから、言われなくても会員の方は常に私を厳しく検証されているとは思うが、そうは言っても日本はただでさえ無意識でも同調圧力の強い社会。
最近はやりの「忖度」が蔓延する土壌がある。
だから私は常に、「自分より上級の人の受けをとる場合は、常に技を試すつもりで遠慮しないように」と語っている。
その点で以前、遠藤征四郎師範が主催された有段者講習会後の交流会の席で、先生がぽつりと語られた一言が忘れられない。
「検証されなくなったら危うい。その意味で、私自身も間違えばいつでも危うい立場に陥るわけです」
酒の席ではあったが、遠藤先生のこの言葉をお聞きした時は、本当に「目から鱗」であった。あの遠藤先生ですら、検証されない指導者の危うさに、常に自覚的に向き合っておられること。
まさに道を極めていくということは、それぐらい己自身、そして己がつくり出している関係性への厳しい向き合い方が必要なのだと痛感した。
これを組織マネジメントの観点から見れば、上司と部下の関係における、「適切な権威勾配」の問題となる。
権威勾配がきつすぎれば、上司が間違ったり不十分だった場合でも、部下がそれを指摘できなくなる。最悪は、権威を振りかざしたハラスメントやDVだ。
権威勾配がゆるすぎると、リーダーシップが失われ、組織の求心力がなくなる。
実力を伴った適度な「権威」が存在しなければ、そもそも、そんな組織に学ぶべきものはないから、人は離れていく。
合気道の稽古において、指導者が自らの実力に見合ったどのような権威勾配をつくり出していくのか、それが自由闊達な生き生きとした稽古を生み出しているのか、常に検証され続けなければいけないと思う。