強引な崩しと邪悪な気が生み出す合気道の精神とは真逆の世界

 先日、地元で開催された地域社会合気道指導者研修会に参加した。
 そこである相手(仮にA氏としておく)から、あまりに強引な崩しを執拗に何度も繰り返され、私は左太腿裏側の肉離れ寸前の状態になり、ほとんどびっこを引いて歩いて帰った。

 20年以上合気道をやっているが、今回のような強引な崩し、そこからの嫌がらせとも言える行為に遭遇したのは初めてで、極めて悪質だと言える。
 合気道の精神、考え方、そして本来の体捌きなどとはまったく真逆なこのような稽古をいくら繰り返しても、百害あって一利なしである。
 なぜこのような事態になったのか、合気道の術理を含めて考えてみたい。

 この事態は、相半身からの交差取り入身投げの稽古で起きた。
 私は相手の手を切らず、そのままの状態で導いて入身して崩す。当然にも、そのほうが相手をきちんと導くことができる。

 ところがA氏は、最初からほぼ私の手を切りながら背後に回り、隅落としのように崩してくる。まあ、これだけならよくある話だ。
 問題は、その崩しかたがかなり強引で、私は崩されながらA氏のほうを振り向いてしまう態勢になる。当然、A氏の方を見てしまうわけだから、そこからA氏が入身投げに入ってきても、自己防衛のために手を出してしまう。これは当たり前の防御反応である。

 だからこそ、入身投げにおける崩しは、相手の背面に優しく寄り添いながら、そのままダンスするように崩して相手が抵抗できない心身の状態を維持することが肝となる。
 だから本来A氏は、こうした状態をフィードバックし、強引な崩しをやめる方向に補正すべきだ。だが、彼はその真逆、私が手を出して思い通りに入身投げをできないことに苛立ち、ますます激しく崩してくる。私はほとんど膝をつき、そのまま寝転ぶような状態にされてしまう。
 当然、こんな状態からわざわざ立ち上がる必要などないし、ここで技は終わりである。この時点で、彼が激しく崩して満足して終わるなら、まあそれはあるとしよう。

 ところがである。あろうことか彼は、完全に崩れ切っている私の首根っ子を掴み、上から押さえつけ、「さあ起きてみろ」とばかりにねじ伏せようとするではないか? さすがに私もこれには驚いた。
 しかも、彼は私より二回りは若く、身体も大きい。その彼が、60を過ぎた高齢者に対して、こんなことを平気でしているわけである。周りから見れば、完全にいじめである。

 私もさすがに少しむっとして、導きからの入身投げを少し厳しくした。「これはないだろう、怒っていますよ」というサインである。
 しかし、彼はますます怒り、ますます激しく崩し、そして首根っ子を強く押さえつける。
 それに耐えるなか、左太腿裏に断裂するような痛みを感じ、その時点で私は「もうやめましょう」と稽古を中止した。

 さて、この講習会は、地域社会指導者講習会である。「合気道最強指導者講習会」ではない。地域社会のなかで、いかに合気道の魅力、その素晴らしさを伝え、合気道を普及していくのかを目的として開催されているはずである。
 当然にも参加者は私を含めて全員、合気道で食べているわけではない、アマチュアである。

 そこにしかるべき立場で参加して、力比べ、技比べをして相手をねじ伏せ、A氏は一体何をしようとしているのか、まったく理解に苦しむ。
 恐らくA氏は日頃、あのような激しい崩しをしても、素直に起き上がって、自分の肩口に頭を寄せてくれ、そのまま派手に投げるという、そんなパフォーマンスの稽古をしているのだろう。
 だから、思い通りに素直に起き上がってくれない私に苛立った。だが、これこそが合気道とは真逆の世界なのである。

 合気道の目的は、相手を自由自在に投げることだという、根本的に誤った理解をA氏はしているから、このような事態が起きるのである。
 合気道が目指すのは、己自身の心身の解放、自由である。何ものにも囚われず、しなやかに、相手と気持ちを合わせ、相手に無理をさせず、相手の嫌がることをせずに捌く。だからこそ、受けも取りも、稽古をすればするほどすがすがしい気持ちになるのだ。
 
 だからこそ、合気道の技には、その人の哲学、世界観、人間性がそのまま表出する。そこを常に検証し、自己省察しなければ、人様に指導などできないと、今回のことを他山の石として、私自身、あらためて肝に銘じたい。
この事態を稽古でフィードバックしました

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