合気道を通じレジリエンスを高める~すべては自然体に戻るため~

 「真の武道には敵はない、真の武道とは愛の働きである。それは、殺し争うことでなく、すべてを生かし育てる、生成化育の働きである。愛とはすべての守り本尊であり、愛なくばすべては成り立たない。合気の道こそ愛の現われなのである。だから武技を争って勝ったり、負けたりするのは真の武ではない」

 余りにも有名な開祖のお言葉である。ウクライナ、パレスチナをはじめ、全世界で戦争と紛争が勃発し、日々多くの人命が失われている今、こうした開祖の思いをどう引き継ぎ、発展させるのかが問われている。

 武の道を志しながらも、試合もしない、優劣を競わないという合気道独自の哲学は、歴史的に言えば、日本が多大な犠牲を出して敗戦した痛苦な経験の中で産み出された。
余りに多くの尊い命が失われた戦争の惨禍を目の当たりにし、同時に新しい平和の時代の息吹を感じる中で、開祖は和合と調和、生かし合いのまったく新しい武道の体系を創造されたわけである。

 とは言え、私たちは日々、その理想と理念に向けて抽象的、観念的な世界に生きているわけではない。日々の稽古の中では、一つ一つの技が検証される。問題は、その検証のプロセスなかで、どれほど合気道の武道哲学が実際に活かされているのかにある。

 試合のない合気道なのに、稽古のなかでは「試し合い」をし、最悪の場合には、相手に怪我をさせるほどに強引に技をかける。ないしはその裏返しとして、梃子でも動かないと頑なに技を拒む。

 こうした稽古を助長させているのが、派手なパフォーマンスを繰り出し、合気道は「最強」の武道であるかのように演出する傾向でもあるだろう。

 しかし、言うまでもなく合気道の本質は、派手な演武、パフォーマンスにあるのではない。武道である以上、最低限の肉体的な鍛錬、技巧の錬磨は必要だとしても、それ以上に大切なのは、自分自身の心身の状態を自然体に保つことができるのかにある。

 そもそも合気道は、こちらから相手を攻撃する体系ではない。常に相手の攻撃を受け、捌く。平穏に何もしたくない、自然体でいたい自分に対して強いられた攻撃=ストレス、歪みから己を解放し、元の自然体に戻るプロセスが合気道の技の体系なのである。

 ゆえに、合気道を通じて私たちが獲得する力は、心身の様々なストレス、歪みから本来の自分を取り戻す、自然体に戻るためのレジリエンスでなければならない。

 またそうであるがゆえに、老若男女を問わず、誰もが本来持っている自然の力を引き出し、それを百パーセント開花されるのが合気道の目的であると私は考えている。

 合気道における「呼吸力」とは、まさにそれを象徴する概念であろう。人は平均的な生涯において、およそ六億回以上呼吸すると言われる。その呼吸のために、何十キロという身体を楽々と開け閉めする。

 腕の筋力をどれほど鍛えても、重さ十キロの荷物を瞬時に上下することは不可能だ。しかし、小さな子どもですら、呼吸のために、楽々と何十キロもの自分の身体を瞬時に上下に開け閉めしている。

 そして呼吸が心の状態とシンクロしていることは自明の理である。心が乱れ、恐怖を感じれば、呼吸は浅く早くなり、乱れる。逆に、心を静めれば、呼吸は深く、ゆっくりと落ち着く。

 人間にとって最も根源的であり、最も潜在的なパワーを秘めた呼吸は、まさに心の平穏、安定と不可分一体であるというこの真理を、合気道では「呼吸力」と表現しているわけである。

 言うまでもなく、この呼吸力は、肉体的な鍛錬によって鍛えたりする類のものではない。そんなことをしなくても、誰もが潜在的に自然に持っている力である。

 しかしそれを、様々な心身のストレスのなかで正しく駆使することは、極めて困難である。だからこそ、合気道を通じてそれを学ぶことは、日々、様々なストレスにさらされて生きている現代人にとっても、大きな意味があるはずである。

 なぜなら本来日本の武道は、生死を決する場面で遭遇する、怒り、恐怖、焦り、苛立ちなどの究極的なストレスのなかで、いかに平常心を保ち、本来の肉体的パフォーマンスを発揮するのかを目指すものだからだ。その大切な伝統を、戦後の平和な日本のなかでいかに継承するのかを開祖は考えられた。

 確かに戦後日本は、戦争の惨禍からは免れてきたが、毎年三万人近い人たちが自殺するなど、日常生活におけるストレスは、開祖の時代には想像もできないほど増大し、複雑化している。

 そんな時代だからこそ、合気道の和合、心身調和、「動く禅」とも呼ばれる精神世界は、ますます存在意義を増しているはずである。

 合気道を通じて、一人でも多くの人が、自分の本来もっている自然の力を開花させ、様々なストレスからのレジリエンス(回復力)を獲得し、明るく豊かな人生を送る。
 まことに微力ながら、そんな合気道をこれからも目指していきたいと思う。

強引な崩しと邪悪な気が生み出す合気道の精神とは真逆の世界

 先日、地元で開催された地域社会合気道指導者研修会に参加した。
 そこである相手(仮にA氏としておく)から、あまりに強引な崩しを執拗に何度も繰り返され、私は左太腿裏側の肉離れ寸前の状態になり、ほとんどびっこを引いて歩いて帰った。

 20年以上合気道をやっているが、今回のような強引な崩し、そこからの嫌がらせとも言える行為に遭遇したのは初めてで、極めて悪質だと言える。
 合気道の精神、考え方、そして本来の体捌きなどとはまったく真逆なこのような稽古をいくら繰り返しても、百害あって一利なしである。
 なぜこのような事態になったのか、合気道の術理を含めて考えてみたい。

 この事態は、相半身からの交差取り入身投げの稽古で起きた。
 私は相手の手を切らず、そのままの状態で導いて入身して崩す。当然にも、そのほうが相手をきちんと導くことができる。

 ところがA氏は、最初からほぼ私の手を切りながら背後に回り、隅落としのように崩してくる。まあ、これだけならよくある話だ。
 問題は、その崩しかたがかなり強引で、私は崩されながらA氏のほうを振り向いてしまう態勢になる。当然、A氏の方を見てしまうわけだから、そこからA氏が入身投げに入ってきても、自己防衛のために手を出してしまう。これは当たり前の防御反応である。

 だからこそ、入身投げにおける崩しは、相手の背面に優しく寄り添いながら、そのままダンスするように崩して相手が抵抗できない心身の状態を維持することが肝となる。
 だから本来A氏は、こうした状態をフィードバックし、強引な崩しをやめる方向に補正すべきだ。だが、彼はその真逆、私が手を出して思い通りに入身投げをできないことに苛立ち、ますます激しく崩してくる。私はほとんど膝をつき、そのまま寝転ぶような状態にされてしまう。
 当然、こんな状態からわざわざ立ち上がる必要などないし、ここで技は終わりである。この時点で、彼が激しく崩して満足して終わるなら、まあそれはあるとしよう。

 ところがである。あろうことか彼は、完全に崩れ切っている私の首根っ子を掴み、上から押さえつけ、「さあ起きてみろ」とばかりにねじ伏せようとするではないか? さすがに私もこれには驚いた。
 しかも、彼は私より二回りは若く、身体も大きい。その彼が、60を過ぎた高齢者に対して、こんなことを平気でしているわけである。周りから見れば、完全にいじめである。

 私もさすがに少しむっとして、導きからの入身投げを少し厳しくした。「これはないだろう、怒っていますよ」というサインである。
 しかし、彼はますます怒り、ますます激しく崩し、そして首根っ子を強く押さえつける。
 それに耐えるなか、左太腿裏に断裂するような痛みを感じ、その時点で私は「もうやめましょう」と稽古を中止した。

 さて、この講習会は、地域社会指導者講習会である。「合気道最強指導者講習会」ではない。地域社会のなかで、いかに合気道の魅力、その素晴らしさを伝え、合気道を普及していくのかを目的として開催されているはずである。
 当然にも参加者は私を含めて全員、合気道で食べているわけではない、アマチュアである。

 そこにしかるべき立場で参加して、力比べ、技比べをして相手をねじ伏せ、A氏は一体何をしようとしているのか、まったく理解に苦しむ。
 恐らくA氏は日頃、あのような激しい崩しをしても、素直に起き上がって、自分の肩口に頭を寄せてくれ、そのまま派手に投げるという、そんなパフォーマンスの稽古をしているのだろう。
 だから、思い通りに素直に起き上がってくれない私に苛立った。だが、これこそが合気道とは真逆の世界なのである。

 合気道の目的は、相手を自由自在に投げることだという、根本的に誤った理解をA氏はしているから、このような事態が起きるのである。
 合気道が目指すのは、己自身の心身の解放、自由である。何ものにも囚われず、しなやかに、相手と気持ちを合わせ、相手に無理をさせず、相手の嫌がることをせずに捌く。だからこそ、受けも取りも、稽古をすればするほどすがすがしい気持ちになるのだ。
 
 だからこそ、合気道の技には、その人の哲学、世界観、人間性がそのまま表出する。そこを常に検証し、自己省察しなければ、人様に指導などできないと、今回のことを他山の石として、私自身、あらためて肝に銘じたい。
この事態を稽古でフィードバックしました

横面打ち小手返し

無限ループは、どこでも方向転換や反転可能で、かつ常に立体的な円の動きなので、捉えどころがなく、ぶつからない、居着かない捌きになります。心身は安定し、自分の中をエネルギーが流れていくのを感じるようになります。

合気道における適切な権威勾配

里山合気会は、閉校となった小学校木造校舎の一教室に畳を敷き、ほんの数名で稽古を始めた。2014年の暮れのことである。
私が校舎を管理するNPO団体の事務局をしていたこと、そして何より、自宅近くで気軽に稽古できる場所を確保したかったことによる。

最初の3年ぐらいは、NPO活動で知り合った3~4名の方と一緒に、月2~3回ペースでぼちぼちとマイペースで稽古していた。
私自身は、富山合気会の稽古にも通いながら、そこでの稽古内容を再度、里山合気会で検証するような感じで楽しんでいたが、徐々に会員が増えるにつれ、会員の方から「先生」と呼んでいただけるようにもなった。

ただ、正直「先生」と呼ばれるのには、今でも違和感が残っている。
私としては、道場の畳の上で好きな合気道を学び合う道友、そのなかの若干の先輩という感覚でしかない。

何より私が嫌なのは、「先生」と呼ばれるような関係性が、間違えば互いの稽古にとって障害となることである。
私としては、同輩や後輩とは常に、「本当にちゃんと技がかかるのか? その技は合理的なのか?」と互いに検証し合える関係性こそが何よりも大切だと思っている。
「先生だから技がかかる」のではなく、「一番適切に技をかけられるから先生」であり続けなければ、人様に指導するなどと偉そうなことは言えない。

まあ、そもそも私には触れただけで相手が吹っ飛ぶような実力などないから、言われなくても会員の方は常に私を厳しく検証されているとは思うが、そうは言っても日本はただでさえ無意識でも同調圧力の強い社会。
最近はやりの「忖度」が蔓延する土壌がある。
だから私は常に、「自分より上級の人の受けをとる場合は、常に技を試すつもりで遠慮しないように」と語っている。

その点で以前、遠藤征四郎師範が主催された有段者講習会後の交流会の席で、先生がぽつりと語られた一言が忘れられない。
「検証されなくなったら危うい。その意味で、私自身も間違えばいつでも危うい立場に陥るわけです」

酒の席ではあったが、遠藤先生のこの言葉をお聞きした時は、本当に「目から鱗」であった。あの遠藤先生ですら、検証されない指導者の危うさに、常に自覚的に向き合っておられること。

まさに道を極めていくということは、それぐらい己自身、そして己がつくり出している関係性への厳しい向き合い方が必要なのだと痛感した。

これを組織マネジメントの観点から見れば、上司と部下の関係における、「適切な権威勾配」の問題となる。
権威勾配がきつすぎれば、上司が間違ったり不十分だった場合でも、部下がそれを指摘できなくなる。最悪は、権威を振りかざしたハラスメントやDVだ。
権威勾配がゆるすぎると、リーダーシップが失われ、組織の求心力がなくなる。
実力を伴った適度な「権威」が存在しなければ、そもそも、そんな組織に学ぶべきものはないから、人は離れていく。

合気道の稽古において、指導者が自らの実力に見合ったどのような権威勾配をつくり出していくのか、それが自由闊達な生き生きとした稽古を生み出しているのか、常に検証され続けなければいけないと思う。

合気道は護身術たり得るか?

私も参加している合気道の交流サイトで、合気道は護身術たり得るかを巡って様々な意見が交わされていて、なかなか興味深い。
合気道がその内容に武術的要素を含むと考えるなら、この問題については、様々な見解があって当然だろう。

「護身術と言うからには、あらゆるルールを無視し、武器すら持って襲ってくる相手に対処できなければ意味がないから、既存の合気道の体系では無理」という意見もある。

その一方で、「そもそも合気道は戦場での武術から発展している以上、究極的には護身術どころか相手を殺傷するにたる十分なポテンシャルを持っている」との主張もある。

一口に合気道と言っても、流派、指導者、道場によって指導内容は大きく異なる。
それぞれ自分が学んだ経験や体系から考えるしかない。
何より、護身と言った場合に、どのような場面を想定しているかも、人によってかなりの差があると思う。

ゆえに、この問いに「正解」などはあり得ないとは思うが、一つだけ考えておきたいことは、「護身」の意味は、根本的には歴史的、社会的、文化的に規定されていることである。

例えば、ただ街を歩いているだけで、いつナイフや拳銃を持った強盗に襲われるかも分からないような、治安状況が極めて悪い社会では、当然にも、そこで合気道を学ぶとしたら、実戦性がかなり高いものでないと意味はなくなる。

ゆえに、ブラジルなどで普及している合気道などをYoutubeで見ると、一般に日本で多く見られる合気道よりは、より実戦を想定した稽古をしている様が伺える。

さらに、ナイフや拳銃での強盗どころか、ほとんど内戦状態で、日々銃弾や砲弾が飛び交うような社会では、そもそも「護身術」そのものが空理空論となる。
しかし逆に、そのような過酷な世界から、精神的な救いを求めるために、「護身術」としてではなく、合気道の精神世界こそが大きな支えとなるかもしれない。

さて、翻って今の日本はどうだろうか?
少なくともまだ今は、「女性が夜一人で歩いても安全だ」と、世界中から驚きをもって評価されるぐらい、治安のいい国である。

その一方で、世界一の超高齢化社会で、生活習慣病などが蔓延して莫大な医療費が国の財政を圧迫し、次世代にツケが残されていく。

つまり、今の日本においては、何か自分の身に深刻な危険が及び、武術的な護身術を必要とするようなトラブルに見舞われるリスクよりも、運動不足による生活習慣病、自己免疫力の低下などにより、何らかの心身の病を患うリスクの方が、はるかに高いわけだ。

つまり、現代の日本を生きている私たちにとって、最も求められている「護身」とは、日々の普通の生活のなかですらアップアップするぐらいの様々なストレスのなかで、できるだけ心身の健康を保ち、明るく前向きに生きていく、そんな「護身術」なのである。

もちろん、だからこそ、その広義の「護身術」には、合気道だけでなく、あらゆるスポーツや趣味なども含まれるだろうから、もはや当初の問題設定からはそうとう離脱してしまうことになる。
見方によれば、「そんなのは詭弁だ」とも批判されるかもしれない。

ただ、護身術をこうした意味でも考えてみれば、合気道の稽古で汗を流し、そのご褒美に美味しいビールを味わう、これもまた、現代日本においては、十分に社会的な意味で「護身術」たり得るということになると、少なくとも私は思う。

合気道の稽古の密度

合気道への関わり方は、もちろん人それぞれで多様性があって当然だと思う。
心身の健康のために、ちょっとずつでも稽古を続けるのも大変意味があるし、武道を極めたいと生活のかなりの部分を稽古に投入して夢中でやるのもいい。

合気道への関わり方には、人によって大きな幅があり、当たり前のことだが、それはまったく各個人の自由だと言うことを大前提として、以下、稽古の密度について考えてみたい。

私の経験からすると、週1回ペースでの稽古では、時間と共に技を覚えることはできても、その中身については、ほとんど進歩はしない。

週2~3回ペースの稽古で、やっと少し世界が変わって見え始める。
その都度、思い出すだけで精一杯だった技を、ある程度自由に駆使できるようになる。

そして、週5~6回ペースの稽古にステップアップすると、それぞれの技の意味を探求し、その練度を高める世界に入ることが可能だ。

私自身は、5級の段階ではほぼ週1回ペース、3級取得前後から週3回ペースになり、1級から初段取得に至る過程では、ほぼ週5~6回ペースで稽古をした。
この過程は、高校部活以来の激しい鍛錬となり、朝ベッドから起きるのも辛く、常に全身が痛み、正直、「今日は休みたいな」と思うことも何度もあった。

ここまで合気道の稽古に没入するためには、大学の部活ならともかく、社会人なら仕事や家庭など、様々な条件をクリアーしなければならないので、誰もができることでは決してない。
だから繰り返すが、「合気道を志す以上、ここまで稽古すべきだ」などと言いたいのではない。

ただ、週1回ペースで40年稽古するより、せめて週2~3回ペースで5年稽古したほうが、はるかに世界は変わる、このことは自覚したほうがいい。
合気道に限らず、どんな習い事でも同じだろう。

だからこそ、合気道の真髄に触れたいと、短期であろうと海外から内弟子に来訪して、毎日のように稽古する外国人の方が、はるかに濃密な稽古を経験して上達するのかもしれない。

身体の内側の自然を探求する合気道の世界

東日本大震災の前年の秋、私は富山への移住を実現した。
直前の2010年春に、念願の合気道初段を取得し、できることならお世話になった埼玉県浦和の道場でそのまま生涯稽古を続けたいとの、後ろ髪を引かれるような思いを残しながらの、故郷富山への移住だった。

その時の私の想いは、合気道は身体の内側の自然を探求する道であり、それと一体のものとして、身体の外側の自然も探求したい。
だから里山の豊かな自然の中で暮らし、半農半Xの暮らしをしながら、合気道の稽古を続けたいというものだった。

その翌年、東日本大震災が発生し、福島第一原発で未曾有の過酷事故が起きた。
私はもともと原発には批判的で、そのリスクについては嫌と言うほど知っていたから、外部電源喪失を聞いた瞬間に、当時茨城県に里帰り出産していた妻子を救援に向かい、翌日には富山に避難させた。

あの震災は、人間が自然をコントロールすることなど、土台できないという現実を嫌と言うほど私たちに突き付けた。
人間が自然を制御し、作り替えることで、無限の経済的恩恵を得ることができるという、原発に象徴されるまったくご都合主義的な神話もまた、見事に崩壊した。
原発はまさに、現代の「バベルの塔」だったのである。

原発だけではない。温暖化による気候変動など、私たちは今、現代文明の在り方を根本的に問い直すべき時に来ている。
そして、その現代文明の根底にあるのは、主体と客体の分離、人間と自然の分離という、二元論である。

この二元論に基づき、人間の身体の外側に、自然の摂理を超えた欲望の対象を求め続ける限り、その欲望は無限に拡大し、それに伴って自然は破壊されていく。
そしてこの二元論には、そもそも人間の身体の内側には、魅力的な探求の場所はない、そこで満足を得ることはできない、との暗黙の前提があるように思われる。

だから現代文明の中に生きる人は、自分の車のエンジンオイルの劣化を気にして数か月毎に交換し、パソコンのレスポンスがわずかに遅れることにイライラしてCPUの性能を嘆いたりするが、それと同じ程度の興味や関心を、自分自身の身体に向けることはほぼない。

しかし、一度合気道などの武道、さらにスポーツなどの身体的運動を始めれば、自分の身体的パフォーマンスが、どれほど豊かな領域を有しているのかが分かる。
身体の外側に向けられた関心は、自分自身の身体の内側に向けられていくのだ。

現代の物質文明は、どう考えても、もう限界に近づいている。
これ以上の外的な拡張、拡大は、最終的には文明そのものの破綻に至る。

しかし、残念ながら人間の欲望や探求心は無限だ。
それは人間が人間であるがゆえのレゾンデーテルかもしれない。
だからこそ、その欲望や探求心の先を、身体の外側ではなく、身体の内側に向けること。
そこに無限に広がる豊かな世界に、より多くの人が触れ、それを感じ、そこで自らの欲望を満たす道を見出すこと。

これ以外に、現代文明が生き残る道はないと、私は考えている。
そのわずかな一助として、微力ながら合気道の普及に努力したい。

合気道における「厳しい技」の意味

合気道が武道である以上、その技に「厳しさ」が内包されていなければ意味はない。
勿論、その厳しさの中身は、相手を傷つける、痛みつけるという類のものではないとした上で、では、合気道における技の厳しさとは一体何なのかについて、長年考え続けている。

そもそも、これが分からないことには、合気道において自分の技が進歩するとは何を意味するのかも曖昧になる。
合気道には試合はなく、柔道や剣道のように、「特定のルールの中でのやりとりで、かくかくしかじかの状態になれば1本」という客観的な基準はないからだ。

仮に、「約束稽古において、どんなに力の強い相手が抵抗しても技をかけられること」が「厳しさ」の基準だとしよう。
ただ、これはなかなか難しい命題だ。

例えば、片手取りの場合、かけられる技を知っている受け、特に有段者が、とにかく自分の腕を動かさないことを至上命題にすれば、ほぼ、通常の技はかからない。
かけるとすれば、約束稽古は無視して、限られた適用可能な技、当身、関節技などを駆使するしかないから、「ある特定の技」の「厳しさ」を検証することにはならない。

真逆だが、しっかりと腕を掴まない、何の気持ちも向けてこない相手にも技はかからない。
相手が手を放したら、簡単に逃げられるだけである。

もちろん、ただ腕を掴み、動かないことだけを目指す相手、あるいは、何の気持ちも向けてこない相手は、そもそも自分を攻めてきているわけではないので、技をかける=捌く必要はない、ゆえに合気道の体系外とも言える。

とすれば、「どんなに力の強い相手が抵抗しても技をかけられること」を「厳しさ」の基準とするには土台無理がある。
では、合気道における「厳しい技」とは一体何を意味するのか?

現時点で私は、これまでの稽古経験に基づき、「しっかりと攻めた上で、数本受けを取っただけで、足腰がガタガタになる技こそ、厳しい技ではないか」と考えている。
実際に、熟達した人の技を受けると、数本投げられただけで、足腰に相当な負荷がかかる。
なぜなら、崩しが厳しく、自分のペースで受けを取ることができないからである。

逆に言えば、通常、技を知り尽くしている有段者が受けを取る場合、「このタイミングでこう受けをとればいい」と理解しているので、技にかかっているようにも見えながら、実際は自分のペースで受けを取ることが可能だ。

こういう受けなら、何十本、いや何百本投げられても、体力さえあれば息すら乱れない。
実際、有段者が白帯の人の受けをいくら取っても、ほとんど疲れることなどないだろう。
私自身、自分よりも下位の人の受けを取っても、ほとんどの場合、足腰には何の負担も感じない。

有段者と白帯の関係なら当然ではあるが、もしこれが有段者同士の稽古でも同じとしたら、取りも受けも、本当には技を磨いていくことにはならないと思う。

合気道において、武道としての「技の厳しさ」とは一体何を意味するのか?
まだまだ模索途中である。