腰回しは自然体に戻るため(中心帰納の探求⑧)

正面打ち一教は、相手の起こりを捉え、可能な限り自然体の近似で相手の打ち込みを受け、腰を少しだけ回すことで崩しを作ります。接点では争わない、常に可能な限り自分の自然体を維持するために補正を続ける。課題は常に、自分自身の心身の状態にあることを自覚します。

目的は自分自身が自然体に戻ること(中心帰納の探求⑥)

体の変更については、色々な考え方があると思いますが、相手とは関係なくまずは自分自身が自然体に戻ることを目指して稽古します。相手は居着き、自分は自由になるのが理想です。しかし、相手を崩したり居着かせたるするのはあくまで結果であり、問題は常に自分自身と向き合うことです。

ただ自分の心身の状態を自然体に戻すだけ(中心帰納の探求⑤)

相手ががっちりと難しい位置で諸手をしても、自分自身の身体の中で自然体に戻ることは可能です。自分の心身を柔軟にし、固まっていると思い込んでいる部分を解放して元に戻す。その結果として相手は崩れます。相手に何かをしようとしたら、この心身の状態を作り出すことは不可能です。

相手に何かしようと思わない(中心帰納の探求④)

合気道が「動く禅」と言われる所以は、「内観」にあります。相手に何をするのか、ではなく、自分自身がどう自然体に戻るのか、そのためにどうすればいいのかだけを考える。それが結果として相手を崩し、制することにつながる。合気道において、いかに意識が重要なのかを示しています。

子どもは達人に一番近い(中心帰納の探求②)

子どもは無理に頑張ったりせずに、自然体でいることが当たり前。だからこそバランスが取れ、中心軸がしっかりし、居着くことなく軽々と動けるので、達人に一番近い存在です。頑張ることが当たり前だと考えている大人は、固く居着き、心身のバランスを喪失しているので、達人から一番遠い存在になってしまうのです。

居着きからのレジリエンス(中心帰納の探求①)

居着かないためには、踏ん張らない、ためを作らない、固くならない。そのためには、これまでの発想とは真逆の、心身を浮遊させる感覚が必要なことに気付きました。そして、相手との関係で何らかの負荷がかかった不均衡な状態から、自分自身が浮遊する自然体に戻ること、ただこれだけのことで、相手は崩れます。相手に何かをしようとした瞬間に居着き、ため、踏ん張りが生じます。相手に何かをしようとするのではなく、ただ自分自身が自然体に戻る。そのレジリエンスこそが合気道の真髄ではないのか? 中心帰納と言われていることの中身ではないのか? 新たな探求が始まります。