合気道における『伝統と合理性』

合気道は、「型稽古」である。型を繰り返し稽古し、型を型として意識しない段階まで身に付けることが求められる。
つまり、型の無意識化、さらに型からの自由こそが究極の目標のはずだ。

しかし逆説的ではあるが、長い伝統のなかで形成されてきた型には、体術としてもっとも合理的な動きが凝縮している。つまり、型には明確な深い意味がある。

その型の無意識化のためには、逆に型の意味について徹底的に考えなければならない。身体的な稽古と一体のものとして、考えることが重要なのだ。

一歩外の世界に目を向ければ、スポーツをはじめあらゆる身体的パフォーマンスについて、日進月歩で科学的、合理的な研究が進められている。
一流のアスリートは、明確に一つ一つの動きの意味を理解し、より合理的、効率的に身体を駆使することを目指している。

もちろん、そのパフォーマンスにとって、メンタルが極めて重要な影響を与えることについても解明され続けている。だから彼らはメンタル・トレーニングも重要視している。

振り返って、わが合気道はどうであろうか? 私たちは、合気道の伝統的な型のなかに凝集された叡智、その意味と価値をどれほど探求しているだろうか?

伝統は常にその意味を再生され、再創造されることでより強靭なものになっていくはずだ。その意味で私は、考え続ける、考え抜く合気道を目指していきたい。

その道のはるか先に、ひょっとしたら、オイゲン・ヘリゲルが垣間見た『弓と禅』の世界が広がっているのかもしれないが、今の私にとっては、見果てぬ夢である。

まずは目の前の一つ一つ稽古の積み重ねを大切にしていきたいと思う。

合気道は己自身の自由を求める

ネット上に溢れる合気道関連の動画を見れば、相手をポンポンと自由に投げ飛ばすものがほとんど。つまり、「相手を自由に動かす」ことが合気道であるかのように誤解されてしまう。

確かに、触れただけで相手を投げ飛ばすことができるような「天才」はこの世に存在するかもしれない。しかし、どんな世界でも当然のことだが、「天才」はごく一握り。

私を含めて、99%の人は「天才」ではない。だとしたら、私のような凡人にとって合気道を学ぶことにどんな意味があるのだろうか?

私にとって合気道は、相手ではなく、自分自身を自由にする道である。
よく「相手を変えるのは難しいが、自分自身を変えることはできる」と言われる。
実は、合気道の術理の基本は、まさにここにあると思う。

敵意を持った相手に強い力で腕を掴まれたら、普通はそれを力で振りほどこうとする。
ところが、その力は相手には届かず、むしろ自分自身を頑なにし、固め、動けないようにしてしまう。

これを武道では「居着き」と呼び、最も戒めなければならないものと考える。
この居着きからの己自身の解放こそが、結果として相手に技をかける際の肝となる。
相手を自由自在に投げることができるとしたら、それは己自身が居着きから解き放たれている結果なのだ。

どんな厳しい状況に置かれても、自分自身は自由になり得る。そして、その自由な心身から、新たな局面を切り開くことができる。
稽古の際に繰り返し強調するのは、このことである。もちろん、単なる抽象論ではなく、具体的な身体的やり取りの中でそれを実感するから説得力があるし、さらに深い意味を探求できる。

何のために稽古するのか? それは、己自身を自由にするためである。

合気道において「受けを取る」ことの意味

合気道においては、技をかける側を「取り」と言い、技をかけられる側を「受け」と言う。
「受け」は攻撃する側であり、相手の腕を掴んだり、あるいは打ち込みをしたりする。
「取り」はこうした攻撃を捌き、技をかけるわけだ。

攻め手と受け手があらかじめ決められた約束稽古である。
しかも合気道には一般的に試合と呼ばれるものはない。

さて、試合もせず、あらかじめ取りと受けが決まっている合気道の稽古に、武道としてのどんな意味があるのか? と言う問いは、ある意味で当然である。
ここで私は、「合気道は本当に強いのか?」と問題を矮小化させるつもりはない。
何をもって強いとするのかは、武道において命のやり取りをする時代ではない以上、ほとんど何の意味もない。

例えば、「空手と合気道とどっちが強いのか?」という問いは、「野球とサッカーとどっちが強いのか?」と問うているのと同じである。
なぜなら、空手も合気道も、それぞれのルールを逸脱し、不特定多数を相手に、それこそ喧嘩することなど想定していないからである。
「想定していない」と言うより、そんな状況を回避することに、何よりも価値を置いているとも言える。

これらをすべて踏まえた上でなお、ある問いは残る。
では、合気道において、技の上達はどうやって検証されるのか?
私が思うに、それは「受けを取る」という極めて能動的な行為において検証されるしかないと思う。

ただし、この「受けを取る」という言葉は、ある意味で誤解を生みやすい。
相手の技を受けることは、極めて能動的な行為なのだが、これが、「相手の技に自分から合わせていく」と誤解されているケースも多々見受けられる。
「合気道は相手と争わない」という大義名分によってこれが合理化されている場合もある。

実は「受けを取る」とは、もし相手の技が不十分であれば、「これは違いますよ」と取りに伝えることを意味し、逆に相手の技が極めて優れていれば、気持ちよく投げられることを意味する。
取りの側は、受けが抵抗し技がかかりにくいという状況になれば、「これはどこかが違うのだ」とフィードバックし、逆に相手が抵抗なく技にかかれば、「これでいい」と確認する。
取りと受けは常に、こうしたやり取りをしなければ、いくら稽古をしても意味はないのだ。

だから、合気道の稽古の質は、こうしたやり取りをできる仲間をどれだけ増やせるのかにかかっている。
ただポンポンと相手を投げて自己満足していては駄目なのである。
相手は間違った「受けを取っている」だけなのかもしれないからだ。

Aikido Heavy

私は2010年に富山に移住するまで、埼玉県の浦和合気会で初段まで稽古させていただいた。
そこで師事させていただいたのは、遠藤征四郎師範である。

遠藤先生は、一年の大半を海外で指導されており、日本人よりも平均的にはるかに体格のいい外国人を相手にされている。
ゆえに、そこからフィードバックされたお話しを沢山お聞きしたことは、現在の私にとって大変貴重な経験となっている。

日本国内では、指導者は、ほとんど気心も知れ、師弟関係にある相手に技をかける場合がほとんどだ。
しかも日本はただでさえ同調圧力の強い社会。
ましてや、合気道においては、師弟関係は絶対だから、指導者がどう自らの技を検証するのかは、実は大変難しい課題なのだと思う。

これは私の勝手な推測だが、外国、特に欧米は日本のような同調圧力が強い社会ではない。ゆえに、指導者はその「肩書」ではなく、本当の意味で真価が問われるとしても不思議ではない。
そんな厳しい状況のなかで、常に自らの技を検証し続けられてきた遠藤先生のお言葉は、大変説得力がある。

その一つが、Aikido Heavy である。
これは、遠藤先生が指導されている外国人の間で、「合気道で有段者になるほど、体重は増えていないのに、重くなっていく」という意味で使われているとのこと。

これはある意味で当然である。
有段者になればなるほど、身体は練れ、技に対する対応力は高まっていくはずだ。

しかし、残念ながら、日本ではなかなかそうはならない。
逆に、有段者であればあるほど、受けが軽くなる傾向が見受けられる。
いかに綺麗な演武を見せるのか、いかに指導者に合わせるのか。
こうした気持ちが先行した稽古を続けていては、Aikido Heavy にはなり得ない。

私は、「合気道において『受けを取る』ことの意味」で既に記したが、取りと受けの健全なやり取りこそが、技の上達にとっての肝となる。
有段者が重い受けを取ることは、取りにとって、自らの技のキャパシティーを広げるために不可欠なのである。

では、重い受けとは何か?
それは、無心に相手に向き合い、相手の導きに応じつつ、しかし、違和感を感じたら素直に抵抗することである。

間違ってはならないことは、最初から抵抗するための抵抗とは意味が違う。
相手の腕を掴みに行くとすれば、後先を考えず、ただしっかりと掴みに行くことである。

理想的な取りは、その相手の気持ちと合わせ、相手が嫌がることなく、知らないうちに技がかかっている状態だろう。
しかし、そうならない場合もある。相手が自分の腕を掴んで絞り上げる、引っ張るなど、どう考えても嫌だ、抵抗したいと思う動きである。
これに対しては、当然のことながら、抵抗し、防御することになる。

ところが、普段の稽古でこうしたやり取りをしておらず、軽い受けを当たり前だと思っている人は、こうした受けを取ると、一気に激高する。
激高した時点で、そもそも合気道の根本原理から逸脱するわけだが、さらに悪いことに、力でねじ伏せ、関節技をきめて痛めつけようとしてくる。

「和をもって」と謳いながら、いざ自分の技が思うようにかからないと、それをフィードバックするのではなく、相手を痛めつけようとする。
当然ながら、こんな相手とやり取りはしたくないから、次からは適当に軽い受けを取る。
相手は軽い受けだから、ポンポンと思い通りに投げてそれで満足するのだが、こんな稽古を何十年続けても、何の進歩もないのは明らかである。