身体の内側の自然を探求する合気道の世界

東日本大震災の前年の秋、私は富山への移住を実現した。
直前の2010年春に、念願の合気道初段を取得し、できることならお世話になった埼玉県浦和の道場でそのまま生涯稽古を続けたいとの、後ろ髪を引かれるような思いを残しながらの、故郷富山への移住だった。

その時の私の想いは、合気道は身体の内側の自然を探求する道であり、それと一体のものとして、身体の外側の自然も探求したい。
だから里山の豊かな自然の中で暮らし、半農半Xの暮らしをしながら、合気道の稽古を続けたいというものだった。

その翌年、東日本大震災が発生し、福島第一原発で未曾有の過酷事故が起きた。
私はもともと原発には批判的で、そのリスクについては嫌と言うほど知っていたから、外部電源喪失を聞いた瞬間に、当時茨城県に里帰り出産していた妻子を救援に向かい、翌日には富山に避難させた。

あの震災は、人間が自然をコントロールすることなど、土台できないという現実を嫌と言うほど私たちに突き付けた。
人間が自然を制御し、作り替えることで、無限の経済的恩恵を得ることができるという、原発に象徴されるまったくご都合主義的な神話もまた、見事に崩壊した。
原発はまさに、現代の「バベルの塔」だったのである。

原発だけではない。温暖化による気候変動など、私たちは今、現代文明の在り方を根本的に問い直すべき時に来ている。
そして、その現代文明の根底にあるのは、主体と客体の分離、人間と自然の分離という、二元論である。

この二元論に基づき、人間の身体の外側に、自然の摂理を超えた欲望の対象を求め続ける限り、その欲望は無限に拡大し、それに伴って自然は破壊されていく。
そしてこの二元論には、そもそも人間の身体の内側には、魅力的な探求の場所はない、そこで満足を得ることはできない、との暗黙の前提があるように思われる。

だから現代文明の中に生きる人は、自分の車のエンジンオイルの劣化を気にして数か月毎に交換し、パソコンのレスポンスがわずかに遅れることにイライラしてCPUの性能を嘆いたりするが、それと同じ程度の興味や関心を、自分自身の身体に向けることはほぼない。

しかし、一度合気道などの武道、さらにスポーツなどの身体的運動を始めれば、自分の身体的パフォーマンスが、どれほど豊かな領域を有しているのかが分かる。
身体の外側に向けられた関心は、自分自身の身体の内側に向けられていくのだ。

現代の物質文明は、どう考えても、もう限界に近づいている。
これ以上の外的な拡張、拡大は、最終的には文明そのものの破綻に至る。

しかし、残念ながら人間の欲望や探求心は無限だ。
それは人間が人間であるがゆえのレゾンデーテルかもしれない。
だからこそ、その欲望や探求心の先を、身体の外側ではなく、身体の内側に向けること。
そこに無限に広がる豊かな世界に、より多くの人が触れ、それを感じ、そこで自らの欲望を満たす道を見出すこと。

これ以外に、現代文明が生き残る道はないと、私は考えている。
そのわずかな一助として、微力ながら合気道の普及に努力したい。

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