合気道の関節技は相手を痛めつけるためにかけるのか?

「あなたたちはまだそんなことをしているんですか?」
浦和合気会で稽古させたいただいた際、指導に訪れた遠藤征四郎師範が稽古中に投げかけられた言葉を鮮明に記憶している。

高段者の先輩が後輩に四教をかけ、痛みで思わず後輩が悲鳴を上げた瞬間を捉えてのことだ。
確かに四教は、熟達者にかけられると、一瞬脳天を直撃するような激しい痛みを感じる。
多くの場合、苦痛で顔を歪める受けの姿を見て、取りは自分の技が上手くかかったと満足する。

しかし、そんな高段者に対して遠藤師範は、「相手を痛めつけて自己満足するレベルに、いつまで留まっているんですか?」と疑問を投げかけられたわけだ。
「外国に行けば、関節がものすごく柔らかくて、痛みをほとんど感じない人はいっぱいいますよ。そういう人には、痛いからかかる技ではかかりません」
「そもそも、相手は受けをとってくれているわけです。その相手を痛めつけて何の意味があるんでしょうか?」

それ以来私は、関節技の際にも、できるだけ相手に痛みを感じさせないで、体捌き、足捌きで相手を崩すためにはどうすればいいのかを探求し続けてきた。
同時に、それが果たして武道的にどういう意味を持つのかも考え続けてきた。

武道である以上、どんな相手であろうとも、その攻撃を制する、捌くことは必須だ。
ただし、当然ながら合気道においては、相手を痛めつけることが目的ではない。
もし、痛いから技がかかるとしたら、それは最初から相手を痛めつける、痛みによって相手を制するということになる。

そうでない道はあるのか?
一般に関節技で相手を崩す、投げることが可能なのは、相手が痛みを感じるからだと思われているかもしれないが、順番は逆ではないのか?
しっかりと体捌き、足捌きで相手を崩した上で関節をとりにいけば、相手は痛みを回避するために自ずから回避行動に入り、結果として相手を制することができるかもしれない。
相手をそういう心身の状況に導くことこそ、目指すべきものではないのか?

ここで大切なのは、「自ずから」という点である。
痛みが先行する、つまり相手への攻撃性が先行すれば、当然相手はそれに反発し、敵愾心を持ってしまう。
そうではなく、こちらから相手を導くことによって、相手に自然に回避行動を選択させる。
こうなれば、相手を痛めつけることなく、相手を制することが可能となる。

そしてこれは、単に技のレベルの話ではない。どのような心の状態で相手に技をかけるのかこそが、実は核心であるとも言えるのだ。
中学時代に夢中で何回も読み返した吉川英治の『宮本武蔵』のなかに、こんな記述がある。

武蔵が槍の宝蔵院に向かう途中、畑仕事をしている一人の老僧の横を通り抜けようとすると、何とも言えないすさまじい気が感じられて、思わず九尺ばかり跳んで通り抜けた。
この老僧は、奥蔵院の住職・日観だったが、こう武蔵と会話している。

「お手前はわしの側を九尺も跳んで通った。何故、あんなことをする」
「あなたの鍬が、私の両足に向かって、いつ横ざまに薙ぎつけて来るか、分らないように思えたのです。又、下を向いて土を掘っていながら、あなたの眼気は私の全身を観、私の隙を恐ろしい殺気で探しておられたからです」
「はははは、あべこべじゃよ」老僧は笑って言った。
「お手前が十間も先から歩いて来ると、もうお手前がいう殺気が、わしの鍬の先にピリッと感じていた。それ程、お身の一歩一歩には争気がある。当然、わしもそれに対して、心に武装を持つのじゃ」
「あの殺気は影法師じゃよ。つまり、自分の影法師に驚いて、自分で跳び退いたことになる」

関節技で相手を痛めつけようとすれば、その攻撃性は必ず相手に伝わり、相手は頑なになり、ますます技はかからなくなり、それを力づくで乗り切ろうとすれば、さらに合気道の本質から外れていく。
この悪循環に陥ってはならない。