異なる共同体の接点からこそ文化は発展する

世界中を見渡しても、発生以来、一度も他者との接点のない共同体、そして文化は存在しない。
どんな共同体、文化にせよ、必ず他者と触れ合い、融合し、時に対立しながら、その独自性を確立していくものである。

「他者性」を異質なものとして常に排除する共同体や文化は、必ず硬直化し、生命力を喪失していく。
逆に、自分と異なるものに対して開かれていく共同体や文化は、常に生命力を再生産する。

さらに、「今」は常に、そうした歴史的変遷のなかの一地点である。これまでも変化してきたように、これからも変化し続けていくのが当然なのだ。

こんな大きな話から、突然、合気道の話に移るのは、いささか論理的飛躍があるのかもしれないが、合気道には様々な流派、教え、道場の系列がある。
通常、最初に出会った流派、道場での教えが、その後の合気道人生を規定することになる。

よく「三年稽古するよりも三年かけて良い師を探せ」と言われるが、試合もない合気道の場合、「良い師」の客観的評価の基準はない。
ゆえに、そもそも審美眼を持っていなければ、「良い師」を選ぶことはできないのだが、初心者が最初から審美眼を持っているはずもないから、この言い方は論理矛盾である。

かく言う私も、最初に出会った道場では、様々な違和感を覚え、転勤を機にいったん合気道を辞めた。
次に出会った道場で本格的に稽古を再開し、ピーク時には週5日~6日、身体がボロボロになるぐらいに激しい稽古を積み重ねた。

しかし、どうしても里山暮らしをしたいとの願いもあり、初段取得を節目に富山に移住。
そこで地元の道場でお世話になり、さらに現在、里山合気会を主催するに至っている。

これは、私のようにいくつかの系列の異なる道場を経験した者にしか分からないのかもしれないが、所属道場と指導者によって、指導内容は大きく異なる。
最も基本的な相手との間合いなどもまったく違う。

その場合、当然にも自分のなかにある疑問が生ずる。
「あの道場ではこう教えられたが、この道場では違う。果たしてどちらが正しいのか?」

この疑問を本当に解決する道は一つしかない。
様々な人と稽古し、自分自身で検証するしかないと言うことである。

さらに、このプロセスを通じて、技の「意味」について深く考える以外なくなる。
「なぜこちらの教えの方が優れているのか? その根拠は何か? それは普遍的なものか?」

さて、冒頭の文書との関連はここにある。
私は、異なる様々な流派、道場を経たことにより、嫌でも「差異」を考えるしかなくなり、逆にそれによって合気道への洞察を深めることができたのかも知れないと思っている。

「異なる共同体の接点からこそ文化は発展する」のと同様、異なる流派、道場の接点からこそ合気道は発展する・・と言えるのか・・・

もちろん、こうした考察は、ある程度の稽古を積んだ上での話である。
里山合気会でも、少なくとも初段になるまでは、無用な混乱を避けるために、私が考える体系で指導することにしている。

ただそれ以降は、それぞれが様々な考えに触れ、稽古で体験し、自分自身で考えていくことが大切だと思っている。
「考える合気道」は、何よりも大切な要素だと思う。

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